2021年6月メルマガ 正しい人ばかりだから争いが起きる
【正しい人ばかりだから争いが起きる】
「善人ばかりの家庭では、争いがたえない」
という有名な法話があります。
Aという家族とBという家族が、
隣り合って住んでいました。
Aの家族はいつも笑いが絶えず、みんな仲良しです。
ところが、
Bの家族は喧嘩ばかりで雰囲気が良くありません。
ある時
Bの家族のお父さんが、
Aの家族のお父さんに尋ねます。
B『お宅は、みなさん仲良しですね。 どうしてですか? 』
Aのお父さんは答えます。
A「うちは、みんな悪人だからですよ。」
B『うちは、ケンカが絶えないんですよ。』
A「もしかしたらお宅は、みなさん善人なのかもしれませんね。」
ある日、廊下に水の入ったバケツが
置きっ放しになっていました…。
Aの家では、
バケツを蹴っ飛ばしたお父さんが、
「気がつかなかった私が悪かった。ごめん」
と謝り、
お母さんが
「そこに置きっ放しにしたの私なの。ごめんなさい」
と謝り、
子どもが
「お母さんが掃除中なのに、僕がお母さんを呼んだの。ごめんなさい」
と謝りました。
みんなが”自分が悪いのだ”と謝りました。
水浸しになった廊下を、
みんなで掃除して、
仲良くお茶の時間になりました。
Bの家では、
バケツを蹴っ飛ばしたお母さんが、
「こんなところにバケツを置いてたらジャマじゃない!」
と怒り、
お父さんが
「俺が掃除をしてやっていたんじゃないか!」
と怒鳴り、
子どもが
「ふたりとも静かにしてよ!今、勉強しているんだから!」
と怒りました。
それぞれ”自分に非があるとは思っていません”。
その日の夕食は気まずい雰囲気になりました。
私に責任があった、
私が悪かったと、
自分の悪を自覚している人(悪人)が集まれば、
争いは起きません。
私に責任はない、
私は悪くないと、
自分を優位に置いて
他者を見下ろすような人(善人)が集まれば、
争いが起こるのは必然です。
という話なのですが、
いろいろと考えさせられますね…。
私はお坊さんや占い師として
間接的にケンカの仲裁に入ることがあります。
ケンカしている両方の言い分を聞いていて、
『これって、どちらの言い分も正しいんじゃないか?』
ということが実際にあるのです。
それぞれに、
”大切だと思うことの優先順位”が違っているだけなのに、
自分は正しいと考えて。
自分のモノサシだけで
相手を正そうとしています。
争いというのがどんなモノなのかを目にする機会が多いのです。
聖徳太子は、十七条の憲法(十条)において、
我必ず聖に非ず。
彼必ず愚に非ず。
共に是れ凡夫ならくのみ。
(私は正しいとは限らない
相手が間違っているとは限らない
私も相手も共に物事の道理を理解していないかもしれないと心得よう。)
※一部抜粋
と述べておられます。
こうしてみると
大昔から争いの種というのは変わっていないのですよね。
私はケンカは無意味なことだと考えるようになったので、
人を正したり、責めたり、裁いたりする前に
相手の言い分にも理解を示して、
折り合いをつけることのできる人でありたいなと思うようになりました。
そうすることで、
なんとなく身の回りの争いが少なくなった気がします。
”正しい人同士だからケンカする”
あなたはどう思いますか?
ではまた。